子供の姿に気付かされた「見てあげる」ことの大切さ


今年も秋になり、長女の運動会が行われました。
当初の予定日は台風のため、順延となったのですが、平日、急遽仕事の都合もつけて休みが取れたので、今年も無事、小学校の運動会に参加できました。

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さて、大人になってからみる運動会というのは色々わかってくることもあって、子供の頃には多彩に思えた競技の数々も、冷静に分析してみると走る競技と、踊りのある演技、あと一つくらい球技や棒取りなどのおきまりの種目の繰り返しであることがわかります。

と言いながら、組体操とかは安全面が配慮されており、ピラミッドとかも今は最後の崩しはないし、3段に見えても実は2。5段で、真ん中の段は中腰で下段の子の背中に手をついているだけだったりと、時代に合わせて変化している部分があることに気づきました。

さて、2年目となると親としての参加にも少し飽きを感じていたのですが、子供の様子に少し考えるとところがありました。

というのは、タイトルの通り、子供はいつでも親や誰かに自分の競技する姿を「見てもらいたい」と思っていることです。

平日なので、全ての親御さんが観戦に来れたわけではないのでしょうが、いざ、我が子が演技をするとき、こっそりカメラを構えていると
なにやらキョロキョロしている我が子の姿。

そして、カメラを構えている私の存在に気づくと、「パパ!」、となかなかいい笑顔を向けるのです。

それは別にカメラを意識して作っている表情ではなく、純粋に自分の出番が来た時に、ちゃんと見てくれている人がいるかどうかが子供にとっては大事な関心ごとなのです。

先日、授業参観に一度も来てくれてないと、母親と喧嘩していた長女のことが思い起こされました。
下の子がまだ1歳で、次女は手のかかる年中さんという状況から、母親が子供二人連れて小学校の授業参観に参加するのは至難の技です。

いつか休み取れないかと妻から相談を受けていましたが、子供はいつだって自分の頑張っている姿を親に見てもらいたいと思っていることに、改めて運動会の日の姿に気付かされました。

子供の頃に、誰からも「見てもらわずに」成長する子はいません。
親族や、先生、地域の人々の多くの眼差しによって子供は成長していくのです。

もはやあまり記憶もありませんが、自分自身も小さい頃、たくさんの人の眼差しにみまられてここまで来たのです。
今度は、自分が受けて来た眼差しを我が子に注いであげる番なのだと、それは決して難しいことでなく、少しの心のゆとりがあれば誰にだってできること。

最近、育児に向き合うよりもスマホの画面に逃げ場を探していた自分に、もう一度、親としての自覚を呼び起こされたちょっとした秋の日の出来事でした。

(画像提供:Photo AC

[記事公開日:2018年10月8日]
[最終更新日:]

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